西ヨーロッパ地域研究B/ノルマンディー地方
今回は、北フランスのノルマンディー地方についてです。
「ノルマンディー」とは「ノルマン人の国」という意味です。
そして「ノルマン人」とは中世前半に北欧から西ヨーロッパに侵略を続けた
北方の民族「ヴァイキング」のことです。
つまり北フランスの「ノルマンディー」とは「ヴァイキングの国」ということになります。
なぜフランスに北欧の「ヴァイキングの国」があるのでしょうか?
以下、前半ではヴァイキングのフランス略奪とノルマン・コンクエスト、
後半では有名なモン・サン・ミシェルについて取り上げます。
(画像もたくさん使うので、スマホではなくパソコンでの閲覧を推奨します)

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【年表】
700年代末頃~ 北欧スからヴァイキング(ノルマン人)がイングランドなどの略奪を始める。
840年頃~ ヴァイキング、フランスに侵入を始める。
856~857年 パリ左岸が略奪され、占領。
885年10月 パリのシテ島が700隻の船と3万人の兵に包囲される(約1年間)。
911年 西フランク国王シャルル3世、ノルマン人族長ロロをノルマンディー公に封ずる。
(ノルマンディー公領のはじめ)
1066年1月 イギリス国王エドワード死去。後継者争い起きる。
1066年9月 ノルマンディー公ウィリアム(ギヨーム)、イングランド王位を主張して侵攻。
1066年10月 ヘイスティングスの戦い。その後、イギリス北部を征服。
1066年12月 ノルマンディー公ギヨーム、イングランド国王ウイリアム1世として即位。
(ノルマン・コンクエスト。ノルマン朝の始め)
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1.ヴァイキング(ノルマン人)による西ヨーロッパ略奪
古代が終わって中世前半の8世紀~9世紀頃、つまり西暦700年代~800年代にかけての時代は、
ヨーロッパはあちこちから異民族の侵入・攻撃にさらされます。
その代表格が、北から来襲するヴァイキング、南から侵入してくるイスラームです。
ヴァイキングは、歴史学では「ノルマン人」と言います。
今の北欧(デンマーク、スウェーデン、ノルウェー)、すなわち今のスカンディナヴィア諸国
あたりから戦士たちが船に乗って来襲しました。
最初にターゲットになったのはイングランド(イギリス)でした。
その次はフランスです。
ある日突然、海の彼方から船団を組んでやって来て、
街と言わず、村と言わず、教会と言わず、修道院と言わず、
とにかく片っ端から攻撃・略奪を繰り返すのです。
恐ろしいったらありませんでした。
彼らの船は、全長約20m、幅5mで、ヘサキとトモの部分に竜の彫刻を施し、
1隻あたり40~100人のヴァイキング戦士が乗り込んでいました。
外洋の航行は帆を張り、沿岸や内陸河川への侵入には、
機動性を増すために操船しやすいオール航行に切り替えました。
下の写真は、ノルウェーのオスローにある「ヴァイキング・シップ博物館」
に展示されている発掘されたヴァイキングの船です。
右側の絵は、12世紀のフランスの写本に描かれたヴァイキングです。
船にビッシリと乗り込んで略奪のためにやって来る、
恐ろしいヴァイキングの様子がよく表されています。

発掘されたヴァイキングの船 ヴァイキングの攻撃(1100年頃のフランスの写本)

上の左の写真は、ヴァイキングの戦士のコスチュームです。
鎖で作った鎧帷子(よろいかたびら)です。身につけるとすごく重そうです。
右の写真は現代のヴァイキングのイメージです。ただしこのヴァイキングおじさんが応援するのは、
アメリカン・フットボール「ミネソタ・ヴァイキングス」ですけど(笑)。
でもヴァイキングの強さと恐ろしさの感じは伝わってきますね。
さて、ヴァイキング(ノルマン人)は、こうして最初はイングランド、
その後はフランスにやって来ては、略奪を繰り返しました。
彼らは都市を略奪し、教会や修道院を襲って破壊し、宝物を奪いました。
フランスのオーセールという街の教会などは、ヴァイキングをだますために、
わざとニセの墓を作ったりしています。
下の地図の左側はイングランドに対するヴァイキングの攻撃、
右側はフランスへの攻撃・略奪の様子を表しています。
ヴァイキングは、フランスでは海から川をさかのぼって、
かなり内陸まで入り込んで略奪しています。

最初に示した年表にもあるとおり、
856年からおよそ10年間、フランスではパリが攻撃され、
セーヌ川左岸(パリのシテ島の南側)が占領されています。
また885年には、パリの中心であるシテ島が、約1年間にわたって
700隻の船と3万人の兵に包囲されました。これは40年間で5回目でした。

パリのシテ島を包囲するヴァイキング(P. Velay, De Lutèce à Paris.)
あまりの被害にたまりかねた西フランク国王シャルル3世(在位893/898-923)
(当時はまだ「フランス」ではなく「西フランク王国」)は、911年、
キリスト教に改宗したヴァイキング(ノルマン人)の族長ロロ(改名してロベール1世)に
フランス北部の「ノルマンディー地方」(一番上の地図の赤い部分)を与え、ノルマンディー公に封じました。
おまえらに「ノルマンディー」の土地を正式に与えるから、
これ以上あちこちを荒らし回らないで、どうかそこにおとなしくしていてくれ、という感じですね。
「ノルマンディー公爵」は、形の上は西フランク王国(フランス)の国王の臣下になります。
この後、ヴァイキングの活動(略奪)は次第に収まっていきます。
しかし、ノルマンディー公の力は強大であり続けました。
2.イングランド王位継承問題
さて、この頃イングランドは、ゲルマン系アングロサクソン人で
ウェセックス家のエドワードが国王でした(在位1042~1066年)。
歴代のイングランド国王が戴冠式をすることになる
ウェストミンスター寺院を建設したことでも知られています。

エドワード懺悔王(在位1042-1066年)
このイングランド国王エドワードが1066年に死にます。
そうすると、その後を誰が継ぐのかという後継者問題が噴出しました。
王位を主張したのは次の3人でした。
死んだ国王エドワードの王妃の兄ハロルド
そのハロルドの弟トスティ
エドワードの従兄弟(いとこ)であったノルマンディー公ギヨーム(ウイリアム)
そうです。ここでヴァイキングの子孫「ノルマンディー公」が出てくるのです。
ギヨームは1035年からノルマンディー公となっていました(生まれは1027年)。
イングランド国王エドワードの母が、彼の大叔母だったのです。
血筋が近かろうが、遠かろうが、構いません。
ごく細い親戚関係でも、それが少しでもあれば、堂々と継承権を主張するというのが、
中世の封建制度では当たり前のように行われていたやり方でした。
しかし、まずハロルドが、有力な諸侯に選ばれてイングランド国王に即位します。
弟トスティはそれに異を唱え、ノルウェー王ハーラル3世と手を組んで蜂起しますが、
トスティは結局スタンフォード・ブリッジの戦い(1066年9月25日)でハロルドに破れ、
ノルウェー王と共に戦死します。
イングランド国王に即位するハロルド(2世)
3.ヘイスティングスの戦い(1066年10月14日)
ハロルドは、ライバルを一人排除できたわけですが、
ほぼ同じ頃、1066年9月28日、今度はノルマンディー公ギヨーム(英語読みではウイリアム)が、
ハロルドの王位継承に異議を唱え、自分こそがイングランド王位継承者なのだと主張して、
フランスからイングランドに侵攻して来ます。
ハロルドにとっては「一難去ってまた一難」ですね。
ハロルドはスタンフォード・ブリッジからとって返して、今度はフランスからやって来る
ノルマンディー公ギヨームを迎え撃ちに行きます。
ノルマンディー公ギヨームの軍勢は、約12000。
半分は騎兵でした(総兵力6000とも8000とも諸説あり)。
イングランド南部のヘイスティングス(Hastings)に上陸し、
そこで南下してきたハロルドの軍7000と戦いました。

青はハロルドの動き。フランスからは海を渡ってノルマンディー公ギヨームがやって来る。
ヘイスティングスの戦いは、1066年10月14日です。
結論から先に述べてしまうと、この戦いでノルマンディー公ギヨームがハロルドに勝利します。
ハロルドは戦闘中に右目に矢を受けて戦死しました。
ハロルド軍は総崩れとなって敗走しました。
ヘイスティングスの戦いののち、ギヨームはイングランド征服を続け、
1066年12月25日、ロンドンのウエストミンスター寺院で
イングランド国王ウイリアム1世として即位しました。
つまり、フランスではノルマンディー公として、フランス国王の臣下であるギヨームが、
なんとイングランドの国王になったのです。
逆に言うと、ウイリアム(ギヨーム)は、イングランド国王であると同時に、
フランスではノルマンディー公として、形の上ではフランス国王の臣下なのです。
なんとも複雑ですね。

征服者ノルマンディー公ギヨーム ノルマン・コンクエストを描いたフランスの歴史マンガ
さてこのノルマンディー公ギヨーム(ウイリアム)のイングランド征服のことを
「ノルマン・コンクエスト」と言います。
ヴァイキング(ノルマン人)の末裔によるイングランドの征服です。
ノルマンディー公ギヨームとその臣下たちは、
フランスからイングランドに遠征して征服しました。
言わばフランス人がイングランドを征服して王家を立てたということになります。
なので、ロンドンの宮廷やイングランドの新しい支配者層は、
みんなフランス語を話し、フランス文化ドップリでした。
宮廷で英語が話され、文学作品が英語で書かれるようになるのは、
それからかなり後のことになります。
ちなみに、ギヨームやその有力家臣たちも、イングランドを征服したからと言って、
自分たちがイングランド人(イギリス人)になったなんていう意識はあまりありませんでした。
自分たちはあくまでフランス人で、海の向こうにちょっとしたオマケの領土を獲得した、
程度の意識だったと言われています。
イングランド国王になったギヨーム本人でさえ、
その後の生活の中心は相変わらずフランスのノルマンディーで、
死んだ後のお墓も、ノルマンディー(カーンと言う街)にあるくらいです。
3.モン・サン・ミシェル(Mont Saint-Michel)

①「モン・サン・ミシェル」の「モン」はフランス語で「山」を意味します。
「サン・ミシェル」は「聖ミカエル」つまり「大天使ミカエル」のことです。
したがって「モン・サン・ミシェル」とは「大天使ミカエルの山」という意味です。
お菓子で「モンブラン」というのがありますが、「モン」が山、「ブラン」が白い、なので
「白い山」ということになります。ケーキの「モンブラン」自体は白くはないですけど。
ヨーロッパアルプス(フランス・イタリア国境)にある標高約4808メートルの山である「モンブラン」
は雪で真っ白です。
②ここは、もともとはガリア(フランス)先住民のケルト人(ガリア人)が信仰する聖地で
「墓の山」(Mons vel Tumba Beneni またはMont Tombe )と呼ばれていました。
古代ローマ時代には、ジュピターをまつる神殿が建てられていました。
③708年(メロヴィング朝末期)、アヴランシュ司教オーベールの夢の中に大天使ミカエルが現れ、
「この岩山に聖堂 を建てよ」と3度にわたってお告げをつげます。
最初はそんなお告げを信じなかったオーベルでしたが、
とうとう最後には大天使ミカエルがオーベールの頭に触れて頭に穴を開けたのです。
これによってお告げを信じたオーベールがこの地に礼拝堂を建てました。
710年には「墓の山」(Mont Tombe)という呼び名から「モン・サン・ミシェル」という
名前で呼ばれるようになったのでした。
↑ 大天使ミカエルの指が穴を空けたアブランシュ司教の頭蓋骨(アブランシュ大聖堂)
④966年、ベネディクト派の修道院が建てられ、勢力を誇りました。
よくモン・サン・ミシェルが「城」だと思っている人がいますが、「城」ではなく
湾の外に突き出た山の上に建てられた「修道院」なのです。
⑤1066年、ノルマンディー公ウイリアムがイギリスを征服する前に、
ブルターニュ公との戦いの際にモン・サン・ミシェル付近でノルマンディー公の軍り人馬がおぼれました。
(バイユーのタペストリーにその場面が登場する)。
↓ モン・サン・ミシェル ↓ 溺れる人馬
⑥13世紀初め(1211~1228年)の20年間(仏国王フィリップ2世・オーギュストの時)に、教会北側のゴシック建築群
「ラ・メルヴェイユ(La Merveille)」(驚異・すばらしいもの)作られました(下の赤線で囲んだ部分)。

⑦中世の間、多くの巡礼たちがやってきました。
14世紀にはパリを出発する巡礼者だけで年間16700人の宿泊者を泊めた宿が
あったという記録もあるくらいです。
⑧英仏百年戦争の時代、この島は、イギリス軍によって2度にわたって攻撃されました。
ジャンヌ・ダルクは、そもそもお告げを受けたのが大天使ミカエルだったこともあって、
このモン・サン・ミシェルの島を「天使のあわれみの島」と呼んだりしていました。
⑨1469年、仏国王ルイ11世が「サン・ミシェル騎士団」を創設しました(イギリスからフランスを守るため)。
⑩18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止、1863年まで国の監獄となりましたが、1865年に再び修道院として復活。
⑪1877年に対岸との間に地続きの道路が作られました。
⑫1979年「モンサンミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
⑬2014年7月、島の周囲が砂洲化したため、堤防と道路を取り除いて橋(約760m)を架けました。
現在、一般車両は進入禁止で、観光客は対岸から無料のシャトルバスに乗るか、歩くかです。
ゆっくり歩くと30分くらいです(↓こんな感じ)。

多くの日本人観光客はパリからバスによる日帰りツアーで訪れますが、
島の中にもホテルがあるので、いかにも中世の雰囲気を味わうなら、
島の中のホテルに泊まることをお勧めします。
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本日のオンデマンド方式の授業は以上です。
簡単な感想をメールで提出して下さい。400~500字程度で。
ワードの添付ファイルにするのではなく、メール本文に直接書いて送信して下さい。
メールのタイトルは「学番/氏名/西ヨーロッパ地域研究B」として下さい。
例:1CPY1234/東海花子/西ヨーロッパ地域研究B
期限は12月18日の22時とします。
メールアドレスは次の通りです。
h-nakagawa@tokai.ac.jp
※今年のインフルは非常にキツイです。私はワクチンを打っていたにもかかわらず
40.5度まで体温が上がり、医者からもらったクスリを飲んで熱は下がりましたが、
そのあとのカラダのひどいダルさと、節々の痛みがひどいです。何もできず、ひたすら寝てます。
みなさんもどうか気をつけて下さい。