西洋思想A/宗教改革・プロテスタント(ピューリタニズム)における自己の問題 


今回は、宗教改革についてがテーマとなります。
宗教改革は、高校世界史の教科書にも載っているように、ルネサンスとともに長い中世の終わり、
近代の先駆けとなるもので、中世の間に社会のあらゆるもの(政治も経済も文化も日常生活もすべて)を
支配し、しかも腐敗と堕落が著しかったローマ・カトリック教会に対して1517年に
ドイツの
マルティン・ルター(Martin Luther、1483-1546)が改革を呼びかけたものでした。

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1517年 ルターの宗教改革運動始まる。
1519年 神聖ローマ帝国皇帝カール5世、ウォルムス国会にルターを喚問。
1541年 カルヴァン、スイスのジュネーヴで神政政治。『キリスト教綱要』(1536)
1555年 アウグスブルクの宗教和議。諸侯・都市に信仰の自由認められる。
1646年 イギリスで改革派(カルヴァン主義)が『ウエストミンスター信仰告白』作成。
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以下、ルターの宗教改革について、高校世界史の教科書(『世界史B』東京書籍、2005年)を
貼り付けておきます。





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ルターがカトリック教会を批判したのは、
神と一般信徒の間を取り持つ「教会」という組織や聖職者たちのどうしようもない腐敗・堕落が
目に余るものになったからでした。
上の教科書でも出てくる「贖宥状」「免罪符」はその一例です。
お金を払ってそれを買うと、罪が許されるとか、天国に行けるとか、そんな風に
考えられました。教会はそれを売って儲けたわけです(新しい教会建設の資金にしたりした)。

ルターはこう考えました。
神と一般信者の間を取り持つ「教会」という組織が、上は教皇から下はヒラの神父まで
腐敗・堕落している。だったらそんなものはなくしてしまえ。
その代わりに「聖書」を神と信者の間に置いてそれを重視しよう。


一般信者は教会なんか一生懸命通ったりお布施をしたりしなくても、自分で聖書がちゃんと読めればいい。
聖書さえ読めば、みんなが司祭だ(
万人司祭主義)、教会なんか行かなくても聖書を読んでしっかりと信仰
を守れば、それで「義・正しいこと」とされるのだ(
信仰義認論)。
そこでルターは一般の信者でもちゃんと読めるように
聖書のドイツ語訳を作るのです。
それまでは聖書はすべてラテン語で書かれていて一般の信者には読めませんでした。
さらに言うと、教会でのミサ(儀式)も司祭のお祈りの言葉はみんなラテン語でした。
一般の民衆には全然理解できない呪文のようなものでした。
それを何だか分からないけどありがたいありがたい、と言ってあがめていたわけです。
(日本のお寺でお葬式の時とかに僧侶があげるお経も、実はそんな感じですね。)



プロテスタントの宗教改革は、ルターの後は
ジャン・カルヴァン(Jean Calvin、1509-1564
引き継いで行きます。彼は『キリスト教綱要』を著し、スイスのジュネーヴで改革運動を続けました。
彼の教えは西ヨーロッパに広く行き渡りますが、
特にイングランドでは彼らは
「ピューリタン」(清教徒)と呼ばれました。

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さて、ここでドイツの社会経済史家である
マックス・ヴェーバー(Max Weber)の名著
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
を取り上げ、それに沿ってプロテスタンティズムにおける自己意識の問題について考えていきましょう。

  

この『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、本当に名著です。
昔は、就活の面接とかで面接者から「あなたは大学で何を勉強しましたか?」と質問されて、
「はい、私はヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読みました」と答えると、
「おおー、あなたは大学でちゃんと勉強したんですね~」と言われたほどの著作です。
ただし今は面接者自身がそれを読んでいないことも多いので、残念ながらこうしたやり取りはないと思いますが。
しかし、みなさんも在学中にぜひ一度読まれるといいと思います。岩波書店から出ていますが、
大塚久雄の翻訳も非常に分かりやすいです。

さて、ヴェーバーはこう考えました。
今のヨーロッパで、経済的に先進国なのはイギリス、ドイツ、オランダ、スイス、北欧諸国など。
逆に経済的に後進国なのは、スペイン、イタリア、そしてフランス(フランスはちょっと微妙で、
先進国と後進国の中間くらい)です。
これって、
先進国はみんな宗教的にはプロテスタント、後進国はみんなカトリックではないですか。
いったいなぜなんだろう、なぜプロテスタントだと経済的に、つまり
資本主義が高度に発展するのか?
資本主義は、企業や会社のシステムです。
みなさんもあと何年かしたら就職して、その世界に飛び込むことになります。
資本主義とは、思い切りわかりやすく言うと高度に構築された「金もうけのシステム」です。

宗教って、この場合はキリスト教って、金儲けは良くないと考えるのではなかったのか?
金銭欲、もうけ主義、金もうけ、金の強欲、金の亡者・強欲、こういうものは否定されるべきものであって、
人間は、清く正しくそして清楚でつましくあるべきだ、というのが宗教の教えなのではなかったのか?

なのに、プロテスタント(つまりピューリタニズム)だと金もうけのシステム・資本主義が高度に発展する。
いったいなぜなのか。
これがヴェーバーの議論の出発点でした。

まずルターですが、彼はカトリックが世俗の生活を捨てて修道院に入ることに価値を認めていたのに対して、
そんなことは大事ではない。修道院に入ることよりも、
日常生活の中でちゃんと仕事に励むことの方が
価値があるのだ、と主張しました。ルターは言います。人には天職というものがある。
修道院に入るのではなく、
自分の天職に励みなさい、と。


[ルターの]この天職(Beruf)という観念の中に含まれている世俗的日常労働の尊重という事実については……すでに古代にさえも、存在していた……。[しかし]次の一事はさしあたって無条件に新しいものだった。すなわち、世俗的職業の内部における義務の遂行を、およそ道徳的実践のもちうる最高の内容として重要視したことがそれだ。……この「天職」という概念の中にはプロテスタントのあらゆる教派の中心的教義が表出されている……。
  マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫、1989年、109-111頁。
                                             訳文は一部改変、以下同じ。

ただし、ルターの場合はまだ伝統主義に囚われていて、職業を好きなように変えたり、政府に反抗したり
してはなりませんでした。自分の仕事や身分は、神から与えられたものなのであって、好き勝手に
変えることには、ルターは反対でした。

次にカルヴァンです。彼の教えはもっと過激です。
カルヴァンの教えで、決定的に独特だったのは
「予定説」という教説でした。
次の文章は、『ウエストミンスター信仰告白』(1646年)の一部で、
カルヴァン主義の正統的な神学を体系的に説明したものです。


第3章第3項
 神はその栄光を顕わさんとして、みずからの決断によりある人々を
永遠の生命に予定し、他の人々を永遠の死滅に予定し給うた。

第3章第4項
 このように予定されたり、あらかじめ定められているこれらの人間は、個別的また不変的に指定されており、またその数もきわめて確実で限定されているので、
増し加えられることも、減らされることもできない。

第3章第5項
 神は人類のうち
永遠の生命に予定された人々をキリストにあって永遠の栄光に選び給うた。

カルヴァンによれば、人間は生まれた時からすでに、死んだ後に天国に行くか地獄に落ちるかは
決まっている(予定されている)
というのです。どんなに悪いことをしても、天国行きのキップを
持っている人は天国に行けるし、どんなに善いことをしても、地獄行きのキップを与えられている人は
地獄に落ちるというのです。
地獄行きに予定されている人は、どんなに一生懸命、教会に通って神父さんにお祈りしても、
あるいは教会にお布施(寄付)をしても、まったく意味がない。地獄に落ちるのです。
そこに
教会・司祭たちの役割はありません。教会や神父たちには、
天国行きや地獄落ちのキップ(予定)を変更することは出来ないのです。
  ←カルヴァン


 予定の教説がはじめて十分に展開されたのは彼[カルヴァン]の『キリスト教綱要』の第三版(1543年)においてだった。われわれが知りうるのは、人間の一部が救われ、残りのものは永遠に滅亡の状態に止まるということだけだ。人間の功罪あるいは罪過がこの運命の決定にあずかると考えるのは、永遠の昔から定まっている神の絶対に自由な決意を、人間の干渉によって動かしうると見なすことで、あり得べからざることだ。神の決断は絶対不変であるがゆえに、その恩恵はこれを神からうけた者には喪失不可能であるとともに、これを拒絶された者にもまた獲得不可能なのだ。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』152-154頁)

 カトリック信徒は教会の聖礼典[秘蹟・ミサ・儀式]のもたらす恩恵によって、自分にはどうにもならぬものを補うことができた。司祭が呪術者として、ミサにおける化体[かたい]の奇蹟をとり行い、天国の鍵をその掌中に握っていたのだ。……
[しかし]教会の恩恵賦与の手段によって全生涯の帳尻が決済されるというようなことは、カルヴァン派信徒のばあいには全く問題にならなかった。
                                 
(同書、196-198頁)

カルヴァンは、さらに日常生活の中でひたすら禁欲せよと命じます。
教会に通って、訳の分からない儀式に出る必要はない。あんなものは、
非合理的な魔術・呪術に過ぎない。
もちろん世俗の生活を捨てて修道院に入る必要もない。
日常生活(世俗生活)の中で、禁欲的な生活をしなさい、日常生活の中で非合理的なものを
取り除き、合理的で禁欲的な生活を心がけなさい、と言うわけです。
これを
「世俗内的禁欲」と言います。これはヴェーバーの非常に有名な概念です。
修道院は日常生活(世俗)の外に出て禁欲するので、いわば「世俗外的禁欲」ですね。


 禁欲が全力をあげて反対したのは、とりわけ、現世とそれが与える楽しみのこだわりのない享楽ということ、ただ一つだった。遊技はただ合理的な目的、つまり、肉体の活動力が必要とする休養に、役立つものでなければならなかった。しかし、衝動の赴くままにこだわりなく生活を楽しむための手段である場合には、遊技は彼らにとって好ましいものではなく……端的に排斥されるべきものだった。……職業労働や信仰を忘れさせるような衝動的な快楽は、ずばり合理的禁欲の敵とされたのだった。……宗教的には直接評価しがたい文化財に対する態度も懐疑的、いや、しばしば敵対的だった。……およそ『迷信』の臭いのするもの、呪術や儀式による恩恵授与のあらゆる残滓にまで向けられたピュウリタンの激しい憎悪は、五月柱[メイ・ポウル]や無邪気な教会の芸術行事ばかりでなく、キリスト教固有のクリスマスの祝祭までも迫害した。……ピュウリタンは劇場を排斥したし、また、愛欲的なものや裸体などをあらゆるところから一切閉め出してしまった……。」(同書、328-331頁)

すごいですね、カルヴァン派やピューリタンたちは、カトリックの教会やミサ・儀式、修道院などを
否定するだけではなく、
クリスマスまで否定したのですね。

さて予定説によると、人間はみな生まれたときから天国行く・地獄落ちが決まっている。
しかもそれは変更不可能である。教会は助けてくれません(役に立たない)。他人も助けてくれません。
神自身も助けてくれません。地獄落ちになっている人は、もう必ず地獄に落ちるのです。
地獄落ちに決まっている(予定されている)人を助けて天国行きに変えてくれるものなどは
どこにも存在しないのです。誰も助けてくれません。


 誰も彼を助けることはできない。牧師も助けえない、聖礼典[儀式]も助けえない[……]また教会も助けえない[……]最後に、神さえも助けえない。教会や聖礼典による救済を完全に廃棄したということこそが、カトリシズムと比較して、無条件に異なる決定的な点だ。[儀式などといった]救いのためのあらゆる呪術的方法を、単なる迷信とし邪悪として排斥した「呪術からの解放」の過程がここに完結をみた。神が拒否しようと定め給うた者に神の恩恵を与えうるような呪術的な方法[儀式・儀礼]など存在しないばかりか、およそどんな方法も存在しない。(同書、156-158頁)


さてそうすると、必然的に、いったい自分はどっちに予定されているのか、ということが
問題となるでしょう。いったい自分は天国行きに決まっているのか、地獄行きに決まっているのか、
いったいどっちなんだろう?
一般信徒にとって、自分が天国行きのキップを持っているのだという「救いの確信」が
どうしても欲しくなります。


 かならずや信徒のひとりひとりの胸には、『私はいったい選ばれているのか、私はどうしたらこの選びの確信がえられるのか』というような疑問がすぐさま生じたにちがいない。とりわけ一般の平信徒の広い層のばあいには『救いの確信』が、どうしてもこの上なく重要なことになっていった。
                                   (同書、172-173頁)
 そうした自己確信を獲得するための最もすぐれた方法として、
絶えまない職業労働をきびしく教えこむこととなった。つまり職業労働によって、むしろ職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救われているとの確信が与えられる、というのだ。(同書、178-179頁)

ヴェーバーによれば、ピューリタンにおいて「救いの確信」は、
絶えまない職業労働を通して与えられるというのです。しかも
「収益」が大きければ大きいほど
つまりもうけがおおきいほど、それは
自分が天国行きのキップを持っているという証しなのだ
ということになるのです。


 職業の変更さえも決してそれ自身排斥すべきものとは考えられていなかった。ただ、それは軽率ではなしに、神にいっそうよろこばれるような天職を、つまり、いっそう有益な職業を選ぶものでなければならなかった。そのばあい、職業の有益さの程度を、つまり神によろこばれる程度を決定するものが、もちろん第一には道徳的基準、つぎには、生産する財の『全体』に対する重要度という規準で、すぐに、第三の観点として私経済的『収益性』がつづき、しかも、これがもちろんいちばん重要なものだった。もし利益の少ない職業を選ぶとすれば、自分に対する神の召命(コーリング)の目的の一つに逆らい、神の求め給うときにそれを用いることを拒む、ということになる。富の追求が、まさに命令されているのだ。貧しいことを願うのは、神の栄光を害うものだとされた。それのみでなく、労働能力のある者が乞食をするのは、怠惰として罪悪であるばかりか、隣人愛に反することがらだった。」
                                   (同書、309-311頁)

つまりこういうことです。
教会なんか行く必要はない。修道院に入る必要もない。
日常生活の内部(内側)で一生懸命働きなさい。そして禁欲しなさい。
楽しみや快楽や欲望におぼれてはいけません。楽しみや快楽にお金を使うなど言語道断である。
もうけがあったらあっただけ好きなようにお金を使ってはいけません。
そうして収益やもうけやお金の備蓄が多くなれば多くなるほど、
あなたが天国行きのキップを持っている(予定されている)証拠なのだよ。

もう分かると思いますが、一生懸命働いて、しかもひたすら禁欲してお金を浪費せずにいたら、
そりゃあ収益・お金は貯まります。
貯まらない方がおかしい。
たまった資金は、次の仕事に向けて投資してゆくこととなり、しかもそれを合理的な方法で
さらに増やしてゆくというシステムが出来上がります。結局これが
近代資本主義の形成と発展
につながっていったのです。
「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」が見事に結びついたというわけです。

宗教改革を推し進めたカルヴァンの教えは、金もうけを否定するはずのキリスト教(プロテスタント)を
金もうけのシステムの発展につなげてしまうことになりました。
かくしてヨーロッパでは、経済的先進国はみなプロテスタントなのです。
もうけはあったらあっただけ好き放題陽気に使ってしまうカトリック諸国とは違います。
何か悪い罪を犯しても、教会に行って神父さんにお祈りしたら許されてしまうようなカトリック諸国
とは違います。


さて、カルヴァンの「予定説」ですが、先にも触れたように、
自分が救われているのかいないのか、ということはあくまでも自分だけの問題でした。
誰も助けてくれないのです。教会も神父さんも、親も家族も友人も、そして神さえも助けてくれません。
ひたすら自分だけの個人的な問題なのです。

この内面的孤立化は、今日でもなおピュウリタニズムの歴史をもつ諸国民の、あの現実的で悲観的な色彩をおびた個人主義の一つの根基をも形づくっている。例えば、とくにイギリスのピュウリタニズムの諸著作がしばしば、人間の援助や人間の友情に一切信頼をおかないよう説いている顕著な事実にしてもそうだ。(同書、156-158頁)

宗教が、人間の援助や友情まで信頼するな、と主張するのはすごいですね。
他人は全く当てに出来ないし、信頼できない。自分だけの、自分だけが直面する問題なのです。
この授業では、ヨーロッパの哲学・思想における「自己」とか「主体」とか「私」の原理の
系譜をたどっています。宗教改革のプロテスタント(ピューリタニズム)における厳しい個人主義
もそうした系譜の中に位置づけられるものであると思われるのです。


★今回の授業の内容について、300~400字程度で簡単な感想を書いて、来週の木曜日(5月21日)までにメールで送って下さい。それを出席調査のかわりとします。

メールのタイトルは、学生証番号/氏名/科目名として下さい。
   例 6CPY4567/東海太郎/西洋思想

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私のメールアドレスは次の通りです。

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